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人は、勤労の義務があります。つまりそれは、人生のどこかのタイミングで、何らかの形で職業に就くことを意味しています。現代の日本においては、未だに終身雇用の考え方が根強いので、なんだか「人は自分の職業を見つけることが人生の目標」みたいな感じがします。
初対面の人と話していて「何されてる方ですか?」なんて尋ねたくなるのも、その文化があるからではないでしょうか。「天職」がポジティブな意味なのも、その文化があるからではないでしょうか。
ここまでの主張はどうですか?正しいと思いますか?
まぁ、話を進めるために、正しいということにしましょう。
だけど、私たちは幼少期から小学校に行き、将来の職業とは何の関連もないことを多く学びます。
小学校は100歩譲ったとしても、中学校の二次関数や高校化学の知識は、多くの人にとっては、職業に就いてしまえば何の役にも立ちません。
例えば事務作業を主におこなう地方公務員の秋月さんには、小学校理科で習う維管束の知識など必要ありません。
例えば宅食事業所で調理師として働く馬場山さんには、中学校英語の分詞構文の知識など必要ありません。
例えば看護師として働く茶ノ畑さんには、高校物理のケプラーの法則の知識など必要ありません。
もちろん、人間の価値は職業で決まるわけでもないし、人生の目的は就職ではありません。自分の職業以外の知識に興味を抱いてはいけないなんて決まりはないし、例に挙げた知識が偶然役に立つ場面も生きていれば往々にしてあります。何より、どんなことでも知らないよりは知っていた方が人生が豊かになり得ます。
私が言いたいのはそういうことではなく、受験戦争の惨禍や勤労に身を捧げる人間を、現実離れした視点から冷徹な視線で俯瞰し、「職業人としての人間」という存在が理論上合理的なものとなるように考察した場合を仮定した話をしたいわけです。
どのような結論が導き出されたかというと、「人間は生まれたとき直ちに職業を決定し、以後その職業に関わる事項しか学ばない」ことにすればいいのではないでしょうか。
だめですね。おやすみなさい。
おやすみなさい…と言いたいところなのですが、これは私が受験生時代に実際に考えていたことなのです。
「職業選択の自由」のことは忘れてください。そんな自由すらない場合を仮想しているのです。
もし自分の将来の職業に関する事項しか学ばない社会が存在すれば、世の中の無駄はある程度省かれます。
全教科教える小学校の醍醐坊先生は要らないし、郵便配達員になることが決まっている越後峠さんがピタゴラスの定理なんて学ばなくていいわけです。
必要なものだけを学ぶ中で、必要な範囲のことを身につけていけば、それはそれは合理的な世界になるのではないでしょうか。
そんなことをほんの一瞬だけ考えたことがあります。
もちろん今思えば、この議論は馬鹿げているし、正しさのかけらもないです。
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